ステンドグラスの歴史 【日本編】- 文明開化から現代までの道のり

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日本におけるガラスの起源 - 日本最古のガラス:古代~中世

文明開化から、と題してしまったが、その前に日本におけるガラスの起源を少しだけ。


西暦200年代、弥生時代の遺跡から、勾玉(まがたま)、くだ玉といった装飾品が多数発見されていて、これらが日本で最古のガラスと言われている。しかし、これらが原料から造られたものなのか、海を渡って渡来したガラス製品を溶解して造られたものなのかは、定かではない。


その後、仏教の隆盛にともなって、仏像や仏具、七宝にガラスが使わるようになり、その存在が知られるようになり、徐々に普及していった。

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奈良時代には、朝廷の保護の下でガラスは盛んに造られ、正倉院に残された書物には、原料や着色料、その他のことが記録されている。


しかし、平安時代には大宝律令の影響でガラス製造が衰退し、鎌倉時代を経て室町時代末期には完全に途絶えてしまったのだった。




西洋ガラスの伝来と普及 - フランシスコザビエル: 15世紀~

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そして1549年、ポルトガルの宣教師フランシスコ・ザビエルが日本にやってきた。あの、有名な歴史上の人物である。


彼の目的はキリスト教の布教であったが、このとき携えていたガラスの鏡や遠眼鏡が、日本で最初の西欧ガラスとされている。


この時代、日本は基本的に鎖国時代であったが、ポルトガルやオランダ、イギリスからは人知れずさまざまなガラス器が渡来し、「ビードロ」「ギヤマン」と呼ばれて人々に大いに珍重されていたのだった。


1570年代には西洋ガラスの製造法も伝えられ、徳利や風鈴、彩色ガラスの灯ろうなどガラス細工づくりも盛んになっていた。独特のカットをもつガラス器「切子(きりこ)」も生まれ、なかでも薩摩切子の皿、丼、コップ、茶碗、江戸切子の鉢やくしが、人々の人気を大いに集めていたのであった。


これらの盛り上がりをきっかけとして、海外との交渉が活発になり、びいどろやフラスコといったガラス製品が広く世に普及していった。

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ステンドグラス伝来 : 19世紀

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さて、やっとここで文明開化だ。ここからが本題である。


日本に初めて登場したステンドグラスは、19世紀末にフランスから長崎の大浦天主堂に寄贈された「十字架のキリスト」だと言われている。


この頃には、明治政府も外国からの様々な文化人・技術者を積極的に招き入れていた。世界的にも、中世の衰退期を経てステンドグラスが再び見直されていた時期と重なったことから、招待された外国人たちは一緒にたくさんのステンドグラスや色ガラスを持ち込んだのだった。また、日本に貿易を求めて寄港する大きな外国船からも、多くのガラスが持ち込まれたことだろう。


ちなみに日本では、明治期まで、ステンドグラスはもちろん、板ガラスを開口部に使用する伝統や技術が確立されていなかった。そんな日本でやっと板ガラスの製造が始まったのが明治40年のこと。言い換えれば、明治40年以前の板ガラスは、全て外国から持ち込まれたものと言える。なお、板ガラス自体は、18世紀末には既に日本に持ち込まれていたようである。


そして明治時代は、制度や習慣が大きく変化し、西洋の技術を次々と導入していったまさに文明開化の時期。ステンドグラスも輸入品に頼ることなく、日本人の手で作ろうとする動きが現れたのだった。




日本ステンドグラスの夜明け - 宇野澤辰雄と小川三知: 19世紀

日本のステンドグラスの礎は、宇野澤辰雄と小川三知という二人のパイオニアによって築かれた。


宇野澤辰雄(旧姓:山本辰雄)は、東京職工学校(現東京工業大学)在学中に、明治政府によりガラス技術の習得を目的としてドイツへの留学を命じられた。それは、若干19歳の時であった。


ドイツでの生活は、持ち場の工場での12時間労働の後、夜学に通って語学を基礎から学ぶという過酷なものであったが、彼はそれに耐え、3年間みっちりとステンドグラス技法およびエッチングを学び、帰国した。帰国後、早速工房を構え、ステンドグラスの制作を開始したのであった。

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宇野澤辰雄
(1867-1911)


初めての制作は東京府庁舎の天井の明り取り。これが日本人によって作られたステンドグラスの第一号である。続けて司法省、海軍省などで数点のステンドグラスを制作するが、日清・日露戦争の影響などで国内のステンドグラス需要が減ってしまい、数年であっさりとステンドグラスの制作から撤退してしまうこととなる。


その後、辰雄はポンプメーカーを興し、技術者・経営者としての道を歩んでいった。なお、現在でもそのポンプメーカーは株式会社宇野澤組鐵工所として続いている。


しかし、宇野澤辰雄の持ち込んだステンドグラスの技術がここで断たれたわけではなく、数年後に辰雄の養父、宇野澤辰美によりステンドグラス工房が再開されるのであった。そこでは、現在も受け継がれている老舗ステンドグラス工房の源流を作った何人かの職人が、日々制作に勤しんだのであった。


ここで一つ、特筆すべき事柄を。


日本ステンドグラス史上で燦然と輝く国会議事堂のステンドグラスは、昭和初期に、宇野澤辰美亡き後の宇野澤組スティンドグラス製作所とその系列の工房が総力を挙げ、丸5~6年掛かって作り上げた超大作である。後にも先にも、これほど大規模なステンドグラスは、日本では類を見ない。知る人ぞ知る歴史的事実である。

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小川三知(1867-1928)

そしてもう一人のパイオニアが、小川三知である。


彼は家業の医者を継ぐべく第一高等中学校(現東京大学)へ入学するが、絵画への憧れがどうしても捨て切れず、家督を弟に譲ってまで、退学して東京美術学校(現東京芸術大学)の日本画科へ入学し、日本画を学んだ男だ。そう、彼は情熱の人だったのである。


卒業後、山梨や神戸で教職に就きながら日本画の腕を磨き、そして33歳の時、シカゴ美術学院の日本画教師として単身アメリカへ渡ったのであった。


アメリカでは日本画教師の仕事がうまくいかなかったり、他の様々な仕事でやっと飢えを凌いだりと大変であったようだが、そこでステンドグラスとの運命とも言える出会いを果たしたのである。このとき三知は37歳になっていた。


三知はそれから7年間もの間、アメリカ各地の工房を渡り歩きながらアメリカ式ステンドグラスの技術を貪欲に学んだ。そして満を持して、帰国。再び日本の大地を踏むのであった。なお、カッパーフォイルを用いたアメリカ方式(ティファニー方式)のステンドグラス技術は、三知が初めて日本に伝えたと言われている。


帰国後、三知は取るものも取り敢えずステンドグラス制作の準備をはじめる。代々木に工房を構えての記念すべき第一作目となる日本メソジスト教会銀座教会のステンドグラスを皮切りに、慶応大学図書館、鳩山会館(旧鳩山一郎邸)、安藤記念教会など、数々の名作を生み出していったのであった。


しかし、関東大震災や戦災によって大部分が消失してしまい、現存している作品は残念ながらごくわずかである。


前述の慶応大学図書館のステンドグラスも、現在の物は全く別の人間が復元した物だ。

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日本全国に、その日本画的で繊細な様々な作品を残した彼は、日本でステンドグラスに関わる人の間では知らない人がいないほどの有名人である。


なお、奇しくも同い年である宇野澤辰雄と小川三知の二人は、三知がアメリカから帰国する数ヶ月前に辰雄が死亡したため、生涯一度も顔を合わせる事はなかったのであった。





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成熟・反映期 - 職人の増加と趣味とのしてのステンドグラス: 20世紀~

その後、宇野澤辰雄や小川三知の系譜を受け継いたステンドグラスの工房が全国に広がっていき、公共の施設のみならず市井の間でもステンドグラスが身近なものになっていった。


それらの工房の代表格で現在も続いているところとしては、東京の松本ステインドグラス製作所、大竹ステンドグラス、大阪のベニス工房、玲光社などが挙げられる。


一方、ステンドグラスを学びたい・仕事として取り組みたいという人達の受け口としては、そういった昔から続いている世襲制の工房では難しいという現実が確かにあったのも事実である。


そのような人々は、かつての宇野澤辰雄や小川三知がそうであったように、フランスやアメリカなどの海外へ飛び出し、そこで学んだ最新の技術や方法論を元に日本各地で工房を開き、日本のステンドグラス界に新しい息吹を吹き込んだのであった。特に海外渡航の規制緩和が追い風となった1960年代~70年代にそのような流れが顕著である。


また、そういった新たにステンドグラスをはじめた工房が、これまで老舗の工房では行っていなかった一般向けのステンドグラス教室を各地で始め、加えて材料であるガラスを海外から直接買い付ける大きな問屋も登場し、趣味としてステンドグラスに取り組む人の人口が、1970年代の頃から爆発的に増えたのであった。




そして現在

贅沢品であるがゆえに景気の波に影響を受けつつも、種々の公共建築物、ホテルや結婚式場などにステンドグラスの装飾が用いられ、また住宅のインテリアにも静かな普及を見せている。


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その中には日本美術における空間の美しさを取り入れた、独自の繊細なデザインや色合いのステンドグラスも数多く含まれている。


その一方で、手作り・オーダーメイドの高級品であることは、間違いのないところであるステンドグラス。基本的に、なくても決して困らない部類のものでもある。


そんな中で、ステンドグラス作家・デザイナーの実力不足も相まって、建築物、特に人目に多く触れる公共の建築物に入るステンドグラス作品自体のレベルは、決して高くはない。


いや、むしろ、今でも残る戦前に造られたステンドグラスに比べて、明らかに劣っているものも少なくない。わざわざ足を運ぶ価値のあるステンドグラスとして、現代に造られたものが殆ど挙がることがないのは、そのためである。


それは、ステンドグラス作家・デザイナーの確固たる主張がなく、総じて顧客側に押され気味であったり、中途半端な商業主義に染まっているからに他ならない。

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青淵文庫


現在は、全国にあるステンドグラス工房の数は、趣味の延長上のような個人工房も含めれば大小合わせて約1000件、プロの作家・職人の数は数千人、そして趣味として取り組む人の数は数万人と推測されている。


しかしながら、教室などの趣味としてではなく、職人としての技術を専門的に学ぶ術が少ないステンドグラス業界では、職人の数が着実に減ってきているのも、知られざる事実である。


加えて、2015年問題はステンドグラス業界にも起こりえていることだと思われ、数年後には職人の不足が顕著になることだろう。 (※2015年問題: 団塊の世代が現役を引退し年金をもらい始める年に非労働人口の比率が上がり、企業での人材の確保が深刻な問題になる。特にIT業界では顕著だとされている。)


ただ、サラリーマンと違って自営業であり定年がない職業ではあるので、2015年から直ぐに、と言うことはないだろう。遅れること10年、20年で、今現役の職人や作家は大幅に減っていても全く不思議ではない。


その一方で、ステンドグラスの制作を専門的に学ぶ教育機関は、小規模なものしか存在していない。専門の職人を育てる、というレベルで運営されている専門学校クラスの教育機関は、今は存在していない。


数年前までは、東京の渋谷にステンドグラスアートスクールという専門学校があり、そこを経てプロになるラインが微かにあったのだがが、2009年に閉校。ステンドグラス制作者への道は、より狭き門になっている。


大きな意味でのステンドグラス文化、ステンドグラス業界の発展を心から願ってやまないが、斜陽産業であるのは確かなので、大きな時代の流れには逆らえないのかもしれない。






日本におけるステンドグラスは、明治のころから、あまり技術的な発展はしていない。これは、裏を返せば、すでに日本に入ってきた時点で完成されていたとも言える。


プロ・アマに限らず、作品展などでも、昔からあるようなステンドグラスが非常に多い。確かに、ステンドグラス自体に、そういった昔のものと同じようなものを作ることを良しとする風潮が強いのは事実である。


だが、そういった昔からあるステンドグラス独特の、悪い意味での「イメージ」を払拭できるようなコンセプトが打ち出されれば、決して良いとは言えない日本におけるステンドグラス業界の風潮が、少しは変わってくるのではないだろうか。



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