108年前の日本製ステンドグラスに学ぶ

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都内某所にて

先日、赤坂にある某邸宅に伺い、ステンドグラスのパネルを開口から取り外す作業に携わった。

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家を取り壊してしまうのだが、ステンドグラスは外して、また別の場所に嵌められるまで一旦保管しておきたいとのご要望。家主の方曰く、ステンドグラスが制作されたのは1910(明治43)年頃。当時、大阪にあった別の邸宅にこのステンドグラスが入れられ、後にこの場所に移設されたそうである。かなり大事に扱わているいる感のあるステンドグラスであった。


その時代のステンドグラス業界の情勢と言えば・・・


1890(明治23)年
宇野澤辰雄により、日本初のステンドグラス工房、宇野澤ステンド硝子工場設立。
1894(明治27)年
日本初のスティンドグラスが、宇野澤ステンド硝子工場の手で東京府庁舎へ入れられる。
1906(明治39)年
一時期休業していた宇野澤ステンド硝子工場を再開。メンバーは宇野澤辰雄の養父である宇野澤辰美、別府七郎、木内真太郎、大立目重義。ここか ら本格的に日本のステンドグラス制作がはじまる。
1911(明治44)年
小川三知がアメリカ留学から帰国。
1912(大正元)年
別府七郎、木内真太郎によって、宇野澤組ステインド硝子製作所が設立される。
1916(大正5) 年
木内真太郎、宇野澤組スティンド硝子製作所大阪出張所を開設。

このような出来事が起こっている。1910年は、日本には宇野澤ステンド硝子工場しか存在していないため、そこで制作された可能性が高い。


そう考えると、デザインは木内真太郎、制作は木内真太郎か、別府七郎、もしくはその周辺の職人と考えるのが妥当だ。


木内真太郎は、建築現場の監督を経て、日本初の本格的なステンドグラス製造を始めた宇野澤辰雄の養父、宇野澤辰美らと共に、第二次「宇野澤ステンド硝子工場」の立ち上げに参画した人物。日本ステンドグラス界の第一人者だ。後に大阪に移り玲光社を設立し、大阪市中央公会堂、萬翠荘、旧本多忠次郎、旧内田定槌邸などのステンドグラス制作に携わった。


小川三知や宇野澤辰雄の陰に隠れている感があるが、今も日本各地に残るステンドグラスの多くを手掛けた人物である。


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3人掛かりで取り外したステンドグラス。裏面から。


取り外されたステンドグラスを前にした、家主の方の涙ぐむような素振り。そこに、半世紀以上を共に歩んだ、ただの人とモノという関係性を超えた何かが垣間見えた気がした...。



過去の遺物から学べる事

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デザインをIllustratorで再現してみた。左右対称に近いが、一部は左右で違っている。亜シンメトリーだ。


ケイムはかなり細めで、4ミリ程度。ガラスは、クリア部分は国産の型ガラスで、色ガラスはココモかウィズマークだろう(その2社だけが当時のアメリカには存在していた)。



攻めの姿勢

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中央上部の円のクリアのガラスが、ステンドグラス的には無理のある形状なのだが、それが、予め2つにカットされて、それがコバをケイムで隠さずにそのまま使われている。割れではないのは、きっちり中央の位置に垂直に線が入っていることや、コバの表面の様子で明らかだ。このような技法!?がこの時代に使われていたことに驚愕した。


このようなトリッキーなことをしなくとも、一本縦にケイムの線を入れるなり、そもそも違うデザインにすれば良いのだが、そこを敢えてこうしていることに、意志の強さを感じた。それ以外にも、中々無理のあるカタチのガラスが幾つかあったり、勾玉色のプリズムを使ったりと、攻めの姿勢が見られる。


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ちなみに、同じようなパネルを一度だけ見たことがある。名古屋にある布池教会の地下にあるステンドグラスだ。数年前にこれを見た時は、何か見てはいけない物を見てしまった気持ちになったのを思い出した...。



ガラスの割れ

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左はパネルでガラスが割れていた箇所を抜き出したもの。赤線の部分で割れていた。右は、ガラスカッターだけではカットできない無理のある形ではあるが、割れていない箇所。


これを見て思うのは、単純に細い部分は割れるな、ということ。そして、いくらガラスカッターでカットが困難なカタチであっても、割れ易い訳ではないのだな、ということ。


ガラスが割れやすい/難いの判断ポイントは、要はテコの原理なのかな、と思う。支点、力点、作用点がどこかに発生し、それによって特定の場所に力が集中してしまうことで、割れるのだ。


まあこれは、どんな状況で割れたのかが分からないので、それが全てではないとは思う。だが、そんなに外してはいないだろう。



全面ハンダって!?

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このパネルは全面ハンダで仕上げられている。それにより、この細いケイムでもある程度の強度が出せているのは間違いのないところ。


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この写真のパネルは、横浜の山手にある同じ1910年に作られた洋館、旧内田定槌邸。これも木内真太郎作のステンドグラス。


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このパネルにも全面ハンダが施されている。


ここでふと思ったのは、全面ハンダを考案して初めて行ったのは、宇野澤組の森勇三という人物だと言われているが、1902年生まれの彼は、1910年当時はまだ8歳。彼がこのパネルのハンダを行ったということはあり得ない。


つまり、全面ハンダは森勇三が初めてじゃなかったのかもしれない。ただ、ステンドグラスがもっと後の時期に作られた可能性もあるとは思う。


今回のパネルは、1910年に入れられたパネルとは伺っていたが、後に更に詳しくお話を伺うと、当時大阪にその邸宅が建てられた1905(明治38)年頃から1924(大正13)年の間にステンドグラスが入れられた可能性もあり得るとのことだ。そうであれば、森勇三が行ったということも考えられる。



古いパネルから学べることは多い。経年変化や長い年月に渡ってどう変化するのかは、実際に年月を経たパネルからしか学べない。


パネル製作時にその耐久性について考えることは、デザインにも大きく影響を与える重要な視点であり、頭を悩ませるポイントでもある。今回学んだことを、今後の制作に大いに役立てていきたい。


 2 件のコメント

  1. 名前:かいねこぶぶ : 投稿日:2021/02/06(土) 17:52:35 ID:YxMTQ0OTU

    初めてまして、凄く勉強されてますね。沢山の方に参考になるサイトです!
    森勇三さんのお名前を聞いて、ご存命中にTVとラジオでお話を聞いたことを思い出しました。確かケイムの接点だけのパンダ付けだと鉛と半田の変色の違いを嫌って、全面半田にしたとか。もちろんヨーロッパタイプのケイムの強度をあげることにもなりますが。余計な書き込み、お許しください。

  2. 名前:kyukon-stained-glass : 投稿日:2021/02/06(土) 23:59:30 ID:A1MTE3MzE

    コメントありがとうございます。

    いえいえ、全然余計じゃないですよ!

     

    全面ハンダは、小川三知のパネルも殆どそうなので、森勇三さんが最初じゃない気がしています。小川三知の方が35歳年上です。

     

    まあ、アメリカでコパーテープ技法を習得した小川三知にとっては、全面ハンダはコパー技法と同じような感覚だったのかもしれません。

     

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